昭和49年2月3日 朝のご理解


 御理解第11節 「神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ」
 
 いよいよ寒修行も(?)今日をもって終わらせて頂く事でございます。皆さん今度の寒修行いよいよこう、尻あがりというですか、ますます、参拝の進みも増える、または皆さんがそれぞれに工夫をなさっての信心修行に取り組まれたというその事の成果とでももうしましょうか、というものがどのように銘々のところで手応えがあっただろうか、成果が上がっただろうかと。ここでお取次ぎをさせて頂きます、色々な皆さんのお願いの中に本当に一月ではとても成就できそうもない事が成就しておったり、ね、この事をお願いしておったのが願い以上のおかげになったりという皆さんがいくらも体験をここでお取次ぎをさせて頂きました。
 それは成程、信心に修行はつきものである。修行におかげはつきものだと。いやむしろ修行に力がつく、修行にお徳がつく、そして、おかげといったほうが本当かもしれません。いわばいよいよ神様を信じる心というものが、いやがうえにも、いわば確信されてきた、確認されてきた。まあ色々にその成果の実があがってまいっております事は気がつく気がつかないを問わずそれぞれにおかげを蒙られた事だと思います。
 「神は向こう倍力の徳を授ける」とか、ね、または、一足でも無駄をさせんと仰るくらいですから、様々なおかげを頂かれたとこう思います。けれども私最後の今日十一節の、「神は天地の守じゃから離れる事は出来ぬぞ」と、仰せられてあるこの御理解を頂いてです、金光様の御信心は結局はここのところがいよいよ確信されることだと思うのです。ね。成程、世界中の氏子におかげはやってある。いうならば、この天地宇宙をご守護下さる特に私共人間氏子の上にいわゆる地球上というかね、生きとし生けるもののうえに、の、いわば守をしておってくださる。ね。「神様は天地の守じゃから」とこう仰るからそれは大体宇宙全体のお守である。とても守をして頂いておらなければ出来る事ではない事を色々な事から感じられます。例えば、天地の運行と申します。でも神様のご守護なしには一分一厘の間違いがあったら私ともはこのように生存する事も出来ないほどしの大変なお守をしてくださっておる。宇宙全体の上には。ね。
 とりわけ人間氏子が住むところの地球上のいわゆる生きとし生けるものの上に、神様がいわゆるご守護を下さってある。お守り下さってある。神は天地の守じゃからということはそういうことだと思う。小さく地球なら地球と言う事にもうしましても、なら、小さく私なら私一家なら私一家ということに致しましても、ね、一分一厘が間違いのない、運行。神様のお働きという事の間違いなさをです、感じさせてもらう。それが当り前のようにあったり、それがそれと感じられないというところに神様のご恩に対する喜びも御礼もなされない事になります。
 日々神様のこのように間違いのない働きをね、いうなら、身で感じる。心でそれを実感する。そこに、信心させて頂いておるものの喜びというものがあるのです。その喜びがいよいよ強くなる。おかげを頂いて、喜ぶという事もですけれども、神様のそういう一分一厘間違いのない働きを身に家に受けておるということの間違いなさをです、私はよりそれを感じさせて頂けれるようになったと言うことが修行の成果の最高の所ではないかとこう思います。いつもの事ながら間違いないなあと、今月の丸一月間の朝の御祈念の皆さんお気づきなったかしりませんけれども、私のご祈念が必ず一時間くらいと三分くらいでしたね。これは1月間もう今日までそうです。ね。私がなら、時計なんかをはめてから、はあ一時間もなったから立とうというとじゃない、しかもなら、祈りの内容というのはいつも違うです。
 そすと同時にこの御理解があの三十分以上であったり、三十分であったと言うことですね。最近は十五分かないし二十分位で段々御理解が短くなってくる。どういうわけか知りませんけれども、必ず三十分でしたね。三十分間とにかく以上でした。四十分の場合もありました。これは、私は日頃はお参りできなくてもせめて寒修行だけでもというて本気で信心の稽古に通うてみえる方達にいうならば他の方達では分かっておるけれども、その方達が分かっていないから繰り返し下さっておるような感じが致しましたですね。
 いつも朝参りが出来ない方達のために十五分二十分はおまけのようにして頂いておった。それも今日は十五分でその次は三十分だったというのではなくて、もう必ず三十分であったと言うことです。
 先日からもお話いたしましたように、神様は私共に信じられたくてたまらんでおられると言うことを申しましたね。私共もまた信心は信じる心とあるのですから神様を私共が信じる。神様のいうならば存在ですら信じきれない人達が沢山世の中にあります。信じきれないで、いいや神はないなどと言うておる人があります。
 ね。それは神様といや、なんというですかね、(?)白い髭を仙人のように生やして、それこそ、蜘蛛か霞かを食べて生存しておるというようなそういう神様を例えば心に描いておる人達には神様はないでしょうけれども、今申します天地の働きそのもの、いや天地の働きではない、その働きの大本であるところの天地を守りしてござる守護してござるところのそれを私共は天地金乃神と申し上げるのですから。これはなら、神と名前を付けなくてもどんなにでもいいです。仏といってもゴットといってもいいです。
 けれども、私共はそれを神とこういう。ね。いうなら、(?)現われてくるところの神社、例えば、それとは違うですね。金光教で言う神というのは。天地の働きをそれをその大元です、天地の働きの大元と。いわゆる、その天地を守って下さり、守護しておってくださるそれを私共は神だというならば、そんなことはないと言う人は誰もいないだろうと思う。あることはある。事実。それを私共は金光大神のお取次ぎを頂いて天地金乃神様と唱えあげておるのでございます。
 その神様を私共が信じる。信心とは信じる。他に何を信じるかとそれを信じる。ね。おかげを信じると言いますけれども、おかげだけではなら、自分がおかげと思えばおかげである、おかげでないと思えばおかげでない。もう信じられないことになるのですから。やはりそのいわゆる根本であるところの神様を信じると言うこと。その働きを信じる。それをです今度は私共、ね、身にまたは家に私共のいうならば仕事の現場においてです、そこに、神様を見、神様を聞き、神様を感じる。しかもこのような微妙な事の上にまで神様の働きを頂いておるのだと。
 天地の運行に一分一厘間違いがあってもいうならば天地が破壊するような事になる、いうなら地球が破壊されるようなことになりますようにです、私共の上にそれを感じます。昨日の晩月次祭の終わってから、御本部へ家内と二人で参拝させて頂きました。長女の行っておるところのお爺さん古川隼人先生が三十一日に亡くなられました。それで、昨日告別式でございましたから、それにお参りをさせて頂いたわけですけれども、本当に私ともでもずっと色んなことが行事があって続いて、今日も月次祭が終わらせて頂いて、お参りをさせて頂いた。そして、告別式が済んだらその間にすぐ立たせて頂いて、また最後の今日の寒修行の開けにもなる日なのですので、それに合わせて頂く。もう本当に一分一厘間違いのない神様の働きの中に、今日の告別式があっておるのだという意味のことを挨拶の中に申しましたら、もう先生、もうみんなそう言うて下さいますち。あそこに縁があって、告別式にも参加しなければならない人、また、古川家の家においても、本部の教庁の食卓を勤めておられましたが、丁度一月の三十一日をもって終わった。
 もう、だからもう本当に、なんというですか、もう命のある限り御用をして行かれたという感じです。まあ色々神様働きの間違いなさ素晴らしさにただただあの、感激しておりますというてお話しになりましたが、八十四歳でございました。それにちょうど前日、前日じゃない、その亡くなられる日がちょうど皆が二十名ばっかり子供から孫達にいたるまで、枕辺に集まって、その二十人あまりの人に一人一人に握手を交わされた。それで、最後にはバイバイをしながらお国替えだったのだそうです。本当にその、大往生というか、おかげを頂いてあられるということをまあ色んな場合に、昨日の告別式もまるきり金光家のお葬式のような感じでした。今の教主様、金光様が玉串をおあげになりますし、金光一門の方は全部お見えになっておられましから、もう本当にありがたい盛大な告別式でした。
 もう私共の動きの上においてもそれは一部一厘間違いのない働きの中に、丁度光昭が福山まで迎えにいってくれ、また帰りも福山まで送ってくれましたけれども、本当に何分かすれ違っておったらこんな間違えになるのにといったような事を何回も感じさせて頂いたのですけれども、そういう事もやはり神様のご守護を受けておる、そのご守護を受けておるならご守護を受けておると実感してそれを有り難く頂いておるところに信心の有り難さが私はあると思うのです。
 ね。私は金光様のご信心というものは、だからそのように神は天地の守じゃからと仰せられますように、神は天地の守じゃから離れる事は出来ん。その神様の働きを自分の身に、自分の周囲周辺に感じさせてもらうという事がその事が、例えばこの寒修行によって一段と深く広く実感させて頂いたというおかげを受けること。寒修行にお参りさせて頂きます。どうぞ明日も目覚ましのおかげを頂きますようにとお願いをして、お参りをさせて、それを実行させて頂いておる人たちがです、本当に神様から一分一厘間違いなく起こして頂いたとか、というような体験を皆さん頂かれたわけですけれども、そういう例えば神様のご守護の中にあるところの私達、それを一分一厘間違いのない働きを私共が一分一厘間違いなく受け止めさせて頂くということなん。 
 そこで私共が修行が終わりました。けれども、その修行にいよいよ、修行を修行足らしめるというか、その修行のおかげでというものをこれからもまた頂きまた、表していく事のために、今日私が頂きますことは、行き届くという事と、常平生に行き届くという事。常平生、常平生に行き届く。ね。神様がもうこれは常平生、もう昼もなからなければ夜もない。清いところもなからなければ汚いところもない。神様のそういうご守護を頂いておる。いわゆる常平生である。ですから、私共その常平生を行き届く。いつも心を神様に向けておくという事。そこから実意丁寧神信心というか実意丁寧な行き届き方が出来る。その行き届いた信心が出来れば出来る程です、それこそ微に入り細にわたっての神様の働きをそこに実感する事が出来ます。ね。漠然としてお願いをしておったらこげなおかげを頂いたとかといったようなね、ぽつんぽつんとしたものじゃないのです。おかげというものは。
 ね。厳密にいうたらもう刻々です。神様の働きを身に感じる。それは時計を眺めておれば時計が刻々と一分一秒刻んでおるように、それがはっきり見えてくるように感じるのがご守護を受けておることの事実を実感しておる人の信心の姿だと私は思います。ね。神は天地の守じゃからと仰る。成程、天地の神様がいわば私共を守しておってくださる。ね。しかも神様は離れることは出来んぞと仰る。ね。それを私共が頂いていく。それを私共が実感させて頂く。その実感が信心から生まれてくる尊いものであり、有り難いものなのです。ね。ですから何と申しますか、私共の信心が狂うてきますから、行き届くところが行き届かなくなってきたり、ただ、参っておる時だけ拝んでおる時だけという事になってまいりますとです、その神様のそういう微に入り細にわたっての働きがあっておるけれども、その働きが何か、(?)にもなってきます。漠然としてくるのです。ですからおかげをおかげと実感する事が出来ません。
 昨日、光昭が色々なこの寒修行を修行させて頂いた。断食もさせて頂いた。もうだからやせ細っておりました。それでもう荷物が重たいのを若いもんじゃあります、あれを、重いのをもってから階段を走ったり下りたりしながらその、疲れもあんまり見せずに御用が出来ておりましたが。その本当に修行をさせて頂いて初めて神様を身近に感じる。もう第一、おかげを頂いておることは人間関係にも大変なおかげを頂いておるという事を申しておりました。本当に修行の賜物だと。皆さんもやっぱり同じ事が言えなさると思うのですけれども、いよいよ神は天地の守じゃから離れる事は出来ん。なるほど、離れなさる事は出来ん。その働きを私共が四六時中感じさせて頂けれるおかげ。神様が例えば行き届くとか常平生という事を言われて見るとです、実際は目の粗い事ですけれども神様がそのように間違いのない働きを現して下さる。いうならば打ち向かう倍力の徳と仰るから、五つしか出来ておらんどもそれは神様が十出来たようにして神様がおかげを下さってある。それはどういうことかというと神様が氏子から信じられたいという事だからと思うのです。神様はまた信じるものは信じると仰せられますように、信じるところからおかげが受けられる。
 ね。その為には神様のほうがです心をちょっと神様の方へ向けますと、神様が神様を信じなければおられない働きを現して下さるということは、神様が人間氏子から信じられたいという事を願っておられるという事を思います。そこからまた、神様が、私共を信じてくださる、どういう事を信じ信じられるかというとです、ね、神様のご守護をこのように四六時中頂いておるのだということであります。それを神の恩を大恩を知れば天地の大恩を知れば子孫も続き一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来ると仰る。その一年勝り代勝りのおかげを神様はもろうてほしいやりとうて、いうならば堪えんでおられる神様だという事です。その為には神の大恩、いうならば天地の大恩が分からなければならない。 その天地の大恩を聞けば、はあ、そういう事も神様の働きかと言えば分かるとは分かるけれども、実感としてそれを神のご守護の中にあるのだという事を実感しなければです、ね、神の大恩を知ったことになりません。神の大恩を知る分かるところにいわゆる神恩報謝の心が生まれてくる。その神恩報謝の心に年勝り代勝りのおかげが約束されるのでありますから、天地の親神様も氏子信心しておかげを受けてくれよというのはそういう事だと。いよいよ氏子信心して神の働きを信じてくれよということなんです。ね。そこでなら、信じたいと思うただけではなくて、修行でも一修行でもさせてもらうという事になるとです、神様の働きをはっきりいつもあっておるのだけれども、修行をさせて頂いて心を神様に向けておるから、神様の働きをそこに見、感じる事が、いわゆるキャッチする事が出来る。そこに神様のいわば、私共と神様との離れられないもの。しかもご守護の中にあっての離れられないもの。それを感じる。
 神様がおかげを送ってくださる、そのおかげを送ってくださる心を受け止める心というのは、私は神は天地の守じゃから離れることは出来んと仰せられるその事実を本当にそうだなあと確信出来た時だと思います。それを一つ、いうならば様々な修行の結果というものがです、色々に違いましょうけれどもです、一番その、今度の修行によって一番ここのところを分からせて頂いた最高のものというのは天地の大恩がそれだけには分かったということ。神様のご守護を受けておるという事が本当に身をもって実感する事が出来るようになったというおかげが私は最高のおかげだと思います。
 今日は皆さんに本当に一人一人でもこの寒修行の間の体験話しでも聞かせて頂きたいのですけれども、そういうわけにはまいりませんので、その、久留米の支部長さん、それから大分の支部長さん、綾部さんと佐田さんのお話をしばらく聞かせて頂いて、えっと今日は秋永先生は見えておらんですか、みえていないようですね。最後に、(?)さんあの、最後に締めくくりを一つ、ご挨拶をお願いします。そして今日は茶粥の準備が出来ておるりましょうからそれを頂き終わって寒修行が終わったという事にさせて頂きたい。
 様々にこの寒修行を目指していろんな修行をなさっておられる方たちがありますが、一つ今日をもって、寒修行の間になさっておられる様々な修行を一応、打ち切って頂いて、そしてまた改めて修行をなさる方はなさって、今日で一応そういう様々な修行をなさっておられるでしょう。その修行を今日一日で終わって頂きたいと思います。よろしくお願いします。